世紀の誤審と、奇跡の突破と。第1回WBC日本代表コーチ・辻発彦が考える「チームの強さ」とは

Gunosy

2023-03-16
取材・撮影=塩畑大輔(Gunosy編集部)
※辻発彦の「辻」は一点しんにょう
近くの部屋からも、叫び声が聞こえたような気がした。

2006年3月16日、アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴのホテル。
テレビの前で、辻発彦は思わず雄叫びを上げた。

WBC2次ラウンド最終戦で、メキシコがアメリカに勝った。
この瞬間、絶望的と思われていた日本の準決勝進出が決まった。
時事通信フォト
すぐにパーティールームに集まるように、と号令がかかった。
辻もあわてて身支度をして、部屋を飛び出した。

こんなことが起きるのか。まさに奇跡だ。
もともと21時から夕食が設定されてはいた。解散会の意味合いになると思っていたが、話は変わった。

そういえば、帰国になると見込んでお土産を買いに出た選手も多かったはずだ。
みなあわてて、宿舎を目指していることだろう。

数十分後、パーティールーム。
辻の目の前では、選手、スタッフたちがハイタッチをしながら、子どものように歓声を上げていた。

日本シリーズで優勝したどころの騒ぎではないな。
身震いしながら、そう思った。

 
第1回大会ならではの「事情」

「いま思い返しても、鳥肌が立ちます。あのときは、ものすごい雰囲気でした」

柔和な笑顔。
ほんの少しだけ、頬のあたりがふっくらしたようにも見える。

侍ジャパンの守備・走塁コーチを務めたWBC第1回大会から17年。
辻は昨季限りで埼玉西武ライオンズの監督を退任し、評論家として第5回大会を見つめている。
新型コロナウイルスで2020年の開催が見送られ、6年ぶりとなる舞台。
大谷、ダルビッシュら豪華メンバーがそろったことで、日本では大会前から話題をさらっていた。

「プレッシャー、あるでしょうね」

そうつぶやく。

「第1回はそういう意味では、当初は重圧はなかったです。大会の意義、重みが、出場している我々にもまったくわからなかった」

でも、と続ける。

「始まって大会が進むにつれ、日本がWBCフィーバーになって。試合会場がアメリカに移ってからのことだったので、テレビの映像をみて『日本はこんなに盛り上がっているのか』と驚いたのを覚えています」


突然の電話。あわててクラブを置いて…

2005年春。辻は埼玉県にある自宅近くのドライビングレンジで、ゴルフの練習をしていた。
前年に横浜ベイスターズの二軍打撃コーチを退任。プロ入りしてから20年で初めて、チームに所属しないシーズンを迎えていた。

見たことのない番号から、電話に着信があった。
出てみると、日本野球機構のスタッフだった。

「いまから王さんが連絡されるので、ご対応願いたい」
時事通信フォト
あわてた。世界の王貞治から電話が来る。
ゴルフの練習の傍らで対応するのは、失礼な気がした。打球音でドライビングレンジにいるとさとられないよう、あわてて外へと走った。

駐車場へと飛び出したところで、携帯電話が震えた。
直立不動の姿勢をとってから、通話ボタンを押す。王さんからは、単刀直入にこう伝えられた。

「日本代表の守備・走塁コーチをしていただけませんか」


「一生忘れられない出来事」次々と

横浜のコーチを退任した直後。
共通の知人から「実は王さんに『辻があいていますけど?』と聞いてみたんだよ」と伝えられた。

「王さんは『辻くんならいくらでもオファーはありますから、大丈夫ですよ』とおっしゃったようなんですよね。それを聞いたときには『ソフトバンクに入れてくれたらいいのに』とちょっとだけ思いました(笑)」

電話が来たのは、そこから数か月後のことだ。
王さんは早くから、日本代表の首脳陣としてリストアップしていたのだろうか。いずれにしても、辻は快諾した。

「ただホント、王さんからのお声がけだったから、というところに尽きるんですよね。初めて開催されるこの大会が、どのようなものになるのかは、全然わからなかったですから」
時事通信フォト
選手たちも同じような思いだったかもしれない。
辞退者も少なくなかった。

大会が始まった。東京で行われた1次ラウンドでは、3戦目で韓国に敗れた。
それでも日本は2位で、アメリカ・ロサンゼルス近郊で開催される2次ラウンドにコマを進めた。

この大会にはどんな意義があるのか。
世の中もはかりかねているようだった。辻自身も手探りをするように、コーチの職責を果たしていた。そんな状況が、この直後に一変をする。

「そこからですよね。熱が高まっていったのは。一生忘れられないことが次々と起きた」


目の前で起きた「疑惑の判定」

3月12日、アメリカ戦。
3ー3の同点で迎えた8回表1死満塁の場面で、事件は起きた。

岩村明憲の犠牲フライで、三塁走者の西岡剛がタッチアップ。
レフトからの送球も大きくそれ、日本は貴重な勝ち越し点を得たかに思えた。

アメリカの選手たちは念のため、三塁にボールを送った。
タッチアップのスタートが早くなかったかの確認だ。塁審は「セーフ」のジャッジを下した。
一連の流れを、三塁ベースコーチの辻は最も近い場所でみていた。
よし、この1点は大きい。いける。そう思った。

ベンチからアメリカの監督が出てきて、何やら抗議をしている。
気持ちは分かった。それくらい大事な1点だ。だが、一度下った判定が覆ることはあるまい。

だが次の瞬間、目を疑うようなことが起きた。
デービッドソン球審は「レフトの捕球よりも早くスタートを切った」として、塁審による判定を翻して西岡にアウトの宣告をした。

アメリカのメディアも「誤審」と報じた疑惑の判定。
勝ち越し点をふいにした日本は、9回裏にA・ロドリゲスにサヨナラタイムリーヒットを許し、3ー4で敗れた。


マウンドに立つ国旗。響く怒声

「ありえないんですよ」

17年の時を経た今も、辻はこの件について話すとなると、色をなす。

「アメリカのレフトはものすごく肩が弱かった。だから、とにかくゆっくりスタートだぞと言って、丁寧にスタートを切らせたんですよ」

西岡が三塁を踏んで捕球を待っていた際の構えについても、しっかりと目に焼き付いている。

「こうやって、左足の外側をベースにひっかけて待っていた。この形だと、かなり身体が本塁方向に進み出すまで、左足のつま先がベースに触っていることになります」
こういう形で踏んでいた、と再現する辻さん
つまり、といってさらに語気を強める。

「あからさまに早すぎるスタートを切らない限り、アウトの判定をされる形ではなかったんです」

いずれにしても、日本は早くも2次ラウンド敗退のピンチに追い込まれた。
続くメキシコ戦は勝ったものの、3戦目の韓国戦では1ー2で惜敗した。

試合後。韓国の選手たちがマウンドに国旗を立てていた。
辻はぼうぜんと、ベンチからその様子を見ていた。

「あの冷静なイチローが、試合後のベンチで怒声を上げていた様子も、目に焼き付いています。いずれにしても、これでもう終わりだな、と思いました」


買い物へ。外食へ。選手は散り散りに

準決勝進出の可能性が消滅したわけではない。
翌日。中2日で予定されている準決勝に備えて、日本代表はバスでサンディエゴに移動することになった。

「移動のバスの車中はみんな押し黙っていた。あんなに重苦しい空気というものもなかなかない」

辻はそう振り返る。
何が起きるか分からないから。王監督は選手たちにそう説いていた。だが、誰がどうみても絶望的な状況だった。
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2次ラウンドを通過するには、2位以内に入らなければならなかった。
そのためには同組のアメリカとメキシコが、日本と同じ1勝2敗で並ぶのが最低条件だった。

この日行われる2か国の直接対決で、メキシコが勝てばその形にはなった。
その場合、日本も含めた3チーム間の失点率(失点÷イニング数)の比較で、順位が決まるルールになっていた。

しかし実際には、メキシコが2位に入れる可能性は、ほぼなかった。
つまり、アメリカ相手に勝ちに行く理由が、試合前に消えてしまっていたのだ。

試合前日には、メキシコの選手たちがディズニーランドでアトラクションを満喫する姿が目撃された。
彼らには期待できない。日本は非常に厳しい状況にあった。

メキシコの準決勝進出条件

【試合前の状況】すでに6失点していた
  • 失点率を日本よりも低くするためには、アメリカ戦での13イニング以上無失点が必須
  • 加えてアメリカに3失点させないと、アメリカの失点率を下回れない
【準決勝に行くには】延長13回での3ー0勝利が必要に
  • アメリカ戦でメキシコは裏の攻撃
  • ゆえに3ラン、もしくは満塁ホームランでのサヨナラ勝ちが条件に
サンディエゴにつくと、準決勝の試合会場での練習の時間が設けられていた。
メニューの準備をした辻ら首脳陣だが、選手に無理を強いることは状況的にしにくかった。

「結局、希望する選手だけが参加すればいいということになりました。つまり自主練。モチベーションが上がる感じではなかった」

ある選手はショッピングモールへ。ある選手は外食に。
アメリカとメキシコの試合が始まるころには、メンバーは散り散りになっていた。


敗退濃厚のメキシコ。その心に火をつけたのは

メキシコが2点以上をとって勝ってくれないと、日本は2位になれない。

突破の条件というよりも、むしろ敗退の条件として認識していたかもしれない。
いずれにしても、辻は2次ラウンドの勝負の行く末を見届けようと思った。

試合では、準決勝進出の可能性以外のものが、メキシコを突き動かすことになった。

2回。アメリカは左飛を好捕された際に、一塁走者が二塁付近まで飛び出した。
メキシコの返球は、走者の帰塁よりも早く一塁に到達したかに見えた。だが判定はセーフだった。

この一塁塁審が、アメリカ戦で日本のタッチアップでの得点を取り消したデービッドソン氏だった。

またか…辻は苦々しく思った。
だが、これだけでは終わらなかった。

3回、メキシコは先頭打者が右翼ポール直撃の本塁打を放った。
だが、デービッドソン氏はこれを外野フェンスに当たって跳ね返ったものとみなし、二塁打どまりにした。
メキシコは猛抗議した。
中継映像にも、プレーに使用されたボールに右翼ポールの黄色い塗料がついていることをアピールする選手たちの姿が映し出された。

2死後。メキシコはセンターへのタイムリーヒットでこの走者を返した。
この時点で「両チーム無得点のままでの延長戦突入」という条件が満たせなくなり、自ら敗退を決めることにはなった。

それでも意気消沈するどころか、逆に粘り強い戦いぶりを見せ続けた。
直後に1点を追いつかれたが、5回に内野ゴロの間に1点を奪い、再び勝ち越した。


因縁の審判、試合終わらすジャッジ

「条件が複雑だったでしょ?だからみんなと『これ、どうなるの?』と言いあっていました」

辻がテレビで見守る中、試合は9回に入った。
1点を追うアメリカが、1死から四球で走者を出した。

メキシコも手術明けの守護神・アヤラを強行投入するなど、あくまで勝負にこだわった。
しかし、さらに四球が続いて、1死一、二塁の大ピンチに陥った。
自国の逆転を望む地元ファンが、大歓声でアメリカを後押しする。
これはさすがに追いつかれるかー。そう覚悟した次の瞬間、強い打球が遊撃手の正面に飛んだ。

6−4−3の併殺。
アメリカの敗退を決めるアウトのジャッジを、一塁塁審のデービッドソン氏が静かに行う。微妙な判定をする余地も、もはやなかった。


薄氷の突破にも「実力の裏付け」が

「アメリカ戦での誤審があって、悔しい思いをして。それが救われたから、喜びが爆発したところもあったと思います」

みんなが騒いでいたから、ホテルのあたりは地響きしていたんじゃないかな。
そんなことを言って、辻は笑う。

だが急に真顔になって、こう続けた。

「あれはやっぱり、日本が強かったんだと思うんですよね」

準決勝進出が決まり、笑顔で会見するイチロー
(2006年3月16日=時事通信フォト)

1勝2敗。
自力ではない突破。

それでも辻は「日本がアメリカより強かった」と繰り返す。

「勝敗にはいろんな要素が絡むし、いろんな見方もされるけど、紙一重の差こそが本当の力だと思います」

たとえば、去年のオリックスです、と辻は言う。

「パ・リーグでは、ソフトバンクのほうがあと一歩で優勝というところまでいったけど、最後ライオンズとロッテに連敗した。勝ち、負け、引き分け数すべてで並んで、直接対決の成績でオリックスが上回った」

「まさに紙一重。でもオリックスは、ひとつひとつのアウトをきちんと取れる形も、ここというときに1点をもぎ取る形も持っていた。だから、日本シリーズでもヤクルトと接戦続きだったけど優勝して、終わってみれば『オリックスは強かった』になりましたよね」


誤審でも変えられなかった「結果」

あのときのWBC日本代表もそうだった。

守備では、丁寧にひとつひとつアウトを重ねる。
攻撃では、わずかなスキをついてひとつでも先の塁へ。

そういったあたりを、どの対戦国よりも突き詰めてやっていた。
それができる選手をそろえてもいた。そこについては、自負があった。

「ほかの国は、1点をやれない場面でも内外野が深く守っていたりした。なんでこんな守り方するのかな?って内心ずっと思っていました」

これなら本塁突っ込めちゃうから、思い切っていこう。
走者とそんなやり取りを何度もしたのを覚えている。大会を通じて、日本は判断のいい走塁で相手に失点を強い続けた。

時事通信フォト

スキなく、綿密に。
それは、あのアメリカ戦でのタッチアップの場面にもあらわれていた。

辻が説明した西岡のスタートの形から見て取れるのは、誤審の可能性だけではない。
つま先が最後までベースに触れ続ける分、スタートの加速動作そのものを早く始められる。

その差はコンマ何秒かもしれない。
だがそんなディテールが、最後に勝負を分ける。

失点率の差、わずか0.01。
だが、それこそがチームとしての力の差なのだと、辻は考えている。

細部に宿った神の力。
それは、デービッドソン氏のようなジャッジを持ってしても崩されることのない、揺るがぬ力だ。


最後に勝負を分けるもの

あれから17年。

日本は圧倒的な力を見せつけながら、準々決勝に進出してきた。
大谷、ダルビッシュらを擁し、史上最強との呼び声も高い。

だが、この先大会が大詰めになれば、本当の意味での「チーム力」が問われることになる。
経験も踏まえて、辻はそう考える。

ひとつのアウトをどう取るか。
1点をどうもぎとるか。

「最後に勝負を分けるのは、そういうあたりなのだと思います」

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